植野家へいく
1928年3月義務教育をおえると、金沢から足袋を卸しに来ておられた植野さんという方の家へ、養子のような形で行くことになったのです。
当時、我が家の仕入れ先であった金沢彦三町の足袋卸商、植野さんから、私を養子にほしいという話がもち込まれてきたのだ。前からたびたび話があったのだが、母にすれば末子でもあり小学校がようやくすむところであっただけに、養子の話は断りつづけていたようだ。
植野さんは「学校は夜間になりますが、金沢中学へやります」などと母を説得し、とうとう兄も母も了承したようで、卒業すると同時に長兄に連れられ植野さん宅に行った。
生まれて初めて他人の家へ行くのに、兄と一緒なので安心していたが、家を出る時、母と別れるのが悲しくて流れる涙をどうすることもできなかった。