赤紙来る
昭和19年6月、朝日航空にいた私にも赤紙がきました。召集令状です。
赤い紙を用いて印刷されていたので俗に赤紙とよばれていました。
私は昭和11年の徴兵検査の時に、丙種合格となった身であり、まさか自分にまで赤紙が来るとは思ってもいませんでした。私など戦争がなければ、軍隊は一生無縁の場所であっただけに、戦局の苛烈さがひしひしと感ぜられました。事実、全国都会地では、学童疎開がはじまり、満17歳以上の男子は兵役編入が決まり、全国の町や村で、本土決戦に備えて竹槍訓練がはじまったのもこの年でした。
生まれてはじめて金沢第九師団の歩兵部隊に入営しました。入営して判ったのですが、この時の招集は三ヶ月間の教育訓練だったのです。そのとき小学校の同級生の番幸次君、上級生の金地外之さんも一緒でした。私と金地さんは速射砲部隊に回されました。
金地さんは京都の骨董店で修業したのち、帰郷して開業されましたが招集を受けられたのです。金地さんはラッパの名手で、少年の頃、金地さんが吹くラッパを合図に起こされて、金剣宮へ夏のおさらい勉強にいったものでした。おさらいがすむと、鬼ごっこをしたり戦争ごっこをした仲でした。
三ヶ月のうち二ヶ月は速射砲操作の訓練で、一ヶ月は寺町にあった火薬庫で爆弾の取り扱いの教育を受けました。
そんな訓練で、兵営から兼六園への通りを通う日々のなかで、布施要作師団長閣下によくお会いしました。当時、火薬庫への行き来は、常に初年兵4人の班ですることになっていました。その行き来の道で、誰かが家族から食べ物の差し入れを受け取ることになっていたのです。
ある日のこと、2人が家族と連絡中で、私ともう1人の初年兵の2人だけの時に突然、路地から出てこられた師団長閣下にお会いしたのです。
いつも4人連れなのに2人ですから、大変なことになってしまいました。軍律の厳しい軍隊です。本来ならその場で、大目玉を食うところです。しかし師団長は馬上から私たちの不動の敬礼に、「4人で一緒にいきなさい」と言われただけでした。これは当時の軍隊ではあり得ないことで、布施師団長のお人柄にふれて私たちは感激しました。