戦後はじめて大阪を訪れる
大阪の土を踏んだのは、昭和 20年 10月末、終戦の日から約二ヶ月後のことでした。
文字通り、すし詰めの汽車の中で身動きすることもできず、大阪駅へ着いた時には駅の階段を上り下りするのもやっとという状態でした。私の眼に映った大阪駅からの光景は、ただ驚きの一言につきるだけでした。市の中心部はすっかり廃墟と化し、御堂筋は難波の高島屋さんまで一望のうちでした。駅前広場は闇市で大変な雑踏を極めていました。
私は一番思い出の深い、古巣の船場へと急ぎました。しかし、眼に入ったのはかつての船場の姿ではありません。安土町四丁目角の加藤忠商店は戦災で焼け、跡形もない。心せくままに谷町九丁目の私がはじめて独立して持った店へ急ぎましたが、ここもまた焦土と化していました。無惨そのものの船場の姿を見、さらに跡形もない、かつての店の前に立つと、茫然とするほかありませんでした。
しばらくして、気を取り直すと心斎橋へと向かいました。心斎橋筋ではかって島田鞄店におられた吉本さんご夫婦が、いち早く煙草店を出しておられ、福助堂の社長さんも店舗を出しておられました。お取引きはなかったが、よく覚えていてくださり、ご主人に「ようこそお元気で」と挨拶をし、ご無事であった喜びを申し上げました。実にうれしい出会いでした。これですっかり元気を取り戻し、足取りも軽く東成区大今里に、戦前から懇意にしていただいていたメーカーの中野商店、中野恵司さんを訪ねました。ここで私は思いがけぬ方、加藤忠商店の先輩梶本常四郎さんにお会いしたのです。梶本さんは中野さん方に入社しておられました。全く驚きました。
中野商店を辞して夕闇せまる大成通りを歩いたのですが、偶然にも中野恵司さんの弟の中野行春さんにお会いしました。戦前からお取引きもあり、明るい性格の方で、お互いに無事を喜び合いました。そして、この近くにやはりお取引きのあった蜂須賀さんがおられることを知りました。本当に懐かしさと、嬉しさと、驚きとでした。早速お伺いしたところ蜂須賀ご夫婦もお元気でした。
お訪ねしたわずかな時間でしたが、それが再び大阪へ住むご縁になろうとは、思いもよらぬことでした。蜂須賀さんのお隣の方が、近く郷里へ帰られるのでそのお家が空くというのです。そのあとを譲り受けて再建を期しました。一切を蜂須賀さんにお願いして準備のため金沢へ帰りました。私はやはり大阪で働くというご縁があったのです。人脈というか知人のありがたさと、運命というものの不思議さをしみじみ感じました。